「後漢書」の中の「今東帝無尺寸之柄、驅烏合之眾、跨馬陷敵、所向輒平」が由来です。東帝(劉秀・りゅうしゅう)が王郎と戦う事になりましたが、敵は兵の数が多いため、東帝は王郎を倒せるか心配になりました。すると部下が「王郎は烏合の衆を集めただけだから、この戦は勝てますよ」と言って東帝を励ましました。そこから、統率のない群衆や軍勢をあざけて、烏合の衆と呼ぶようになりました。, 遠国と親交を結び近国を攻略する外交政策。遠い国と手を結び、背後から牽制(けんせい)させながら近い国を攻める策。遠い国は最後に攻めるという策略。, 【故事】 「史記」より。中国の春秋時代、即位して何もせずに三年間が過ぎた楚の荘王に伍挙が言ったことばで、これを聞いた荘王は「この鳥は飛べば天まで昇り、鳴けば人を驚かすだろう」と言って国政に力を入れだしたという故事による。, 戦争に敗れた将軍はその戦いについてあれこれ言うべきでないし、兵法の理論などを説く資格もないという意味。失敗した者は沈黙すべきだというたとえ。「兵」は、「戦い」を意味する。, 【故事】 漢(かん)の国の皇帝の成帝(せいてい)のとき、朱雲(しゅうん)という家臣が上役の悪だくみを知り、成帝(せいてい)に何とかするようにといさめた。成帝(せいてい)はたいへん怒り、朱雲(しゅうん)を御殿(ごてん)から引きずりおろそうとした。朱雲(しゅうん)は、欄檻(らんかん…てすり)につかまって必死に訴えた。欄檻(らんかん)は折れ、地面に落とされても朱雲(しゅうん)は訴え続けたことから、この語ができた。(漢書), 【故事】 中国・後秦の王嘉による志怪小説集『拾遺記』 より、「周の太公望は、若い頃貧乏なのに働かず読書ばかりしていたので、妻は愛想を尽かし出て行った。後に太公望が出世して高位につくと、出て行った妻が復縁を求めてきたが、そのとき太公望は盆の水をこぼして「この水を元に戻せたら復縁に応じよう」と言った。」という記述から。 魏(ぎ)の揚逸(よういつ)と言う人は、広い情報網をはりめぐらしていて、部下の行動をすべて心得ていた。人々は揚逸が千里もかなたのことまで見ぬく眼を持っていると言って恐れたという。(魏書), 【故事】 「膏」は心臓の下、「肓」は横隔膜の上部にあたり、ここに病気が入ると治療できないとされた。「春秋左氏伝・成公十年」にある故事に基づく。晋の景公が病気になり、秦から名医を呼んだところ、医者が着く前に景公は、病気の精が二人の童子となって、膏と肓の間に逃げ込む夢をみた。医者が到着し、景公を診察すると「膏と肓の間に病気があり、薬も針も届かないので治療のしようがありません」と言ったので、景公はその医者を厚くもてなした。まもなく景公は亡くなった。, 「有終」は最後をまっとうする、しかっり締めくくるという意味。最後まで物事をやり遂げて、しかも立派に締めくくること。, 【故事】 中国の「漢書(かんじょ)趙充国伝(ちょうじゅうこくでん)」にある言葉が由来。「百聞は一見に如かず。兵はるかに度(はか)り難し。臣願わくは馳せて金城(きんじょう)に至り、図して方略をたてまつらん。」戦のことは遠く離れたところにいたのではわかりません。私が金城に駆け付けて状況を探り、図に書いて作戦計画を奏上いたしましょう。とあることに基づく。, 時勢や情勢に合わせた対処の方法のこと。もとは軍を指揮するときの四つの心構えのこと。風のように速く行動して、林のように静かに機会を待ち、火のように激しく襲い掛かり、山のように動かずに構えるという意味。孫子の中の句を略した言葉で、武田信玄が旗印に使ったといわれている。, 【故事】 検索: 最近の投稿. 楚の人が、人を突く武器である矛(ほこ)と身を守るための盾(たて)を売っていた。そして、「この盾は頑丈で、どんな武器でも突き通すことができない。」と言い、また「この矛は鋭く、どんなものも突き通すことができる。」と言った。その時、ある人が「それでは、あなたの矛であなたの盾を突いたらいったいどうなるのか」と尋ねたところ、その人は何も応えることができなかった。, 心が清く澄み切っていて邪念のない心境のたとえ。「明鏡」は曇りが一点もないきれいな鏡のこと。「止水」は止まっていて澄み切った水のこと。, 【故事】 周りを敵に囲まれてしまって味方がおらず、孤立してしまっている状態のことを言います。敵という事ではないですが、自分の考えに「反対する人」しか自分の周りにいない状態でもこの言葉が使われることがあるようです。, まわりを見ても敵しかいない状態で味方もなく独りぼっち、です。非常に気の毒な状態ですよね。, 故事成語「四面楚歌」は「しめんそか」と読みます。四面は四方向、周囲ということになるかと思います。楚(そ)は中国に昔存在した国の名前です。歌はそのままですね。四面楚歌は字面を見ると「四方向から楚の歌」という事になります。, 「史記(しき)」という古典の中にある話が由来となります。中国の漢という国と楚という国が戦争していました。楚の項王が率いる軍は垓下(がいか)という地域に城を作って立てこもりました。兵員の数も少なくなってしまい、食料も少なくなっていきました。, 楚と敵対していた漢の軍隊や漢に味方する武将の軍が(楚の軍が立てこもる)城を何重にも取り囲みます。, このような状況で夜間に漢の軍隊が取り囲んでいる四方からなぜか楚の国の歌が聞こえてきました。これを聞き項王は大変驚きました。楚の歌が漢の軍の中から聞こえてくるという事は楚が既に漢の支配に下ってしまったということか。こんなに楚の民が大勢ここに連れて来られているとは・・・。, このような話が書かれている箇所が史記にはありまして、この出来事から「四面楚歌」が誕生しました。項羽と劉邦の話ですよね。項王は項羽のことだと思います。非常に形勢が不利だったわけですが、実は項羽さん、この立てこもっていた場所から抜け出すことに成功したんですね。それはそれで凄いことのような気がしました。何重にも取り囲まれていたというのによく抜け出せましたよね。, 実際に戦争が行われている時に取り囲まれた状態であればこの故事成語は使える表現かと思います。, 例えば1945年8月の大日本帝国はアメリカ合衆国、ソビエト連邦、中華民国といった国に取り囲まれた状態で同盟を結んでいた国も敗れてしまい孤立した状態でした。このような場合は「当時の日本は四面楚歌の状態だった。」と表現することが出来るかと思います。, ある歯医者さんのご家庭にお生まれになった、ただお一人の息子さんが高校生になってからミュージシャンになるために上京したいと言い始めました。両親も親戚のみんなも猛反対し高校生の息子さんに味方してくれる身内の方は一人もいらっしゃいませんでした・・・。このような状況の場合ですと、高校生の息子さんの立場からすると「この時の私は四面楚歌の状態だった。」と言えるのではないかと思います。, 今回取りあげてみた四面楚歌ですが、この状態になると挽回するのも相当難しいでしょうね。四面楚歌は悲惨だから、どうやったらこのような状態にならずに済むものなのかよく考えるというか、負ける戦はしないようにというのが教訓になるのでしょうか。, それと皆が反対することが明らかな意見は主張しないほうがいいということになりますかね。周りの人の中の一部でも賛成にまわってくれるような意見の修正をする必要があるのかなぁと思いました。, 戦争の場合は周囲の国が全て敵側にまわることのないような妥協が必要という事なのでしょうか。でもどうにもならないことは意外と多いものかもしれません。簡単な話ではなさそうです。, 今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>, 故事成語関連記事「故事成語『鶏口牛後』の読み方や意味、由来の話について」はこちらです。, 故事成語関連記事「故事成語である『漁夫の利』の読み方と意味について」はこちらです。. Copyright ©  茶山(さやま)の関心事セット All rights reserved. 【故事成語(こじせいご)】 四面楚歌 【読み方】 しめんそか 【意 味】 自分の周囲がみな敵であること 【由 来】 秦(しん)の国をほろぼした楚(そ)の国の項羽(こうう)が宿敵(しゅく てき)の漢(かん)の国の劉邦(りゅうほう)の軍に敗れて、包囲されて 孟子はこう言いました。「自分自身をだめにする人間とは共に語ることはできない。自分自身を捨てるような人間とは共に何かをすることはできない。その言葉で礼儀をそしる者、これを自暴と言う。自分自身を仁の中に置いたり、義に基づくことができない者、これを自棄と言う。仁とは安心して住める家のようなものである。義とは人が正しく歩める道のようなものである。その家を空き家にして住まず、その道を捨てて歩まないとはなんと哀れなことだろうか」, 【故事】 「戦国策・斉」より出典。中国の楚(そ)の国で、祠(ほこら)の司祭者が召使に大杯に盛った酒を振る舞った。しかし、召使たちはみんなで飲むには酒が足りないので、地面に蛇の絵を描き、早く描き上げた者が酒を飲もうと提案し、さっそく蛇の絵を描き始めた。 ホーム > 「し」から始まる句 > 四面楚歌 【読み】 しめんそか 【意味】 四面楚歌とは、周囲をすべて敵に囲まれて、味方が一人もおらず孤立していること。 スポンサーリンク 【四面楚歌の解説】 【� 「左伝哀公十七年」にある故事から。諸侯が同盟を結ぶ儀式で、盟主が牛の耳を割いて血を採り、これを順番にすすったということから。, どんなに弱い者でも、絶体絶命の窮地に追い詰められれば、強い者に逆襲することがあるという事。弱い物を侮ってはいけないと言う事。また、逃げ場のないところに人を追いつめてはいけないと言う事。, 【故事】
 「論語」「子路」から。「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」君子は人と協調するが、安易に同調したり雷同したりすることはない。主体的に人とつき合うべきであるという言葉。. 前漢時代の「戦国策」(せんごくさく)の「聖人の事を制するや、禍を転じて福と為し(かをてんじてふくとなし)、敗に因りて功を為す」と、「史記」蘇秦列伝(そうさいれつでん)の「臣聞く、古の善く事を制する者は、禍を転じて福と為し、敗に因りて功を為す」からきています。, 人と争わず仲良くするが、自分の意見はしっかり守っていてむやみに人に同調したりしないという意味。, 【故事】 公元前202 小学生国語・語彙(ごい)の教材、【故事成語】について学習する練習問題プリントです。 故事成語(矛盾、完璧、破天荒など)の意味についての理解を確認し、正しく使えるように練習します。 (対象学年:小学4年生から) 「世説新語(せせつしんご)」黜免(ちゅつめん)より出典。「桓公(かんこう)蜀(しょく)に入り、三峡の中に至る。部伍(ぶご)の中に猨子(えんし)を得る者あり。其(そ)の母岸に縁(よ)りて哀合し、行くこと百余里にして去らず。遂に跳りて船に上り、至れば便即(すなわ)ち絶ゆ。其の腸中を破り視れば、腸皆寸寸に絶えたり。」中国、晋(しん)の武将桓温(かんおん)が蜀へ行こうとして、舟で三峡(長江中流の大渓谷で、古来航行の難所)を通った時に、従者が猿のこどもを捕らえて舟に乗せた。母猿は悲しい鳴き声をあげながら、岸に沿ってどこまでも追いかけてきて、百里以上ついてきたけれどあきらめようとせずに、ついに舟に飛び乗ってきた。しかし、途端に息絶えてしまった。そこでその腹を裂いてみると、悲しさのあまりに腸がずたずたにちぎれていたということに基づいている。, 目の前の違いに心を奪われて、結果が同じになることに気がつかないこと。また、ことば巧みに人をだますこと。, 【故事】 出展は「後漢書」です。後漢の学者に推薦(すいせん)されて役人になった人が賄賂(わいろ)を贈ろうとしたとき、「夜なので誰にも気づかれません」と言ったところ、学者が「天知る、地知る、我知る、子知る。何をか知る無しと謂(い)わんや=天の神も知っている、地の神も知っている、わたしもあなたも知っている。だからひそかにやっているつもりでも不正はいつかきっと露見(ろけん)する」と答えたという故事に基づいています。, 【故事】 トップページに戻る. ±ã‚’知れば百戦殆からず, 過ぎたるは、なお及ばざるが如し. 「疑心暗鬼」は中国の春秋戦国時代に書かれた『列子』という書物にある話が元となってできた故事成語です。『列子』という道家(道教)の本にあるお話です。ある人が斧をなくしてしまいました。隣の息子が盗んだのじゃないかと疑います。きっとそうだ。あの歩き方、あの顔色、あのしゃべり方、あの態度…どれもこれも斧を盗んだ人間のものだ。ところがふと気がついて窪地を掘ってみるとそこから斧が出てくるではありませんか。その後その隣の息子をまた見てみると動作も態度も斧を盗んだ人間の様子には見えなかったといいます。, 物事の一部分や細部に気を取られてしまうと、全体を見失うという事。手段を誤れば、何かを得ようとしても得られないという事。また、見当違いで実現不可能な望みを持つ事。, 【故事】
 項羽的部隊在垓下修築營壘,但兵少糧盡,漢軍及諸侯兵已將他一層又一層團團圍住。深夜,從四面隱隱傳來楚地的歌聲,歌聲是由漢營裡傳出來的。項羽大為吃驚,說:“難道劉邦已經打下西楚了嗎?怎麼漢營裡有這麼多楚人呢?”項羽一陣愁緒上來,就在帳中飲酒。當時,跟在項羽身邊的有一直受寵的虞姬;有隨著項王衝鋒陷陣的駿馬–騅。, 項羽不禁慷慨悲歌,自己作詩吟唱道:“力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何,虞兮虞兮奈若何?(力量能拔山啊,英雄氣概舉世無雙,時運不濟呀騅馬不再往前闖!騅馬不往前闖啊可怎麼辦,虞姬呀虞姬,怎麼安排你呀才妥善?)項王吟唱了幾遍,美人虞姬在一旁應和。項羽的眼淚一道道流下來,左右侍者也都跟著傷心落淚,沒有一個人能抬起頭來看他。, 唱罷,項羽騎上烏騅馬,部下八百多騎士緊跟其後,趁夜突破重圍,向南衝出,飛馳而逃。天快亮的時候,漢軍才發覺,命令騎將灌嬰帶領五千騎兵去追趕。項王渡過淮河,部下壯士能跟上的只剩下一百多人了。項羽到達陰陵,迷了路,去向一個農夫問路,農夫騙他說:“向左邊走。”項羽帶人向左,陷進了大沼澤地中。漢兵因此而追上了他們。, 項羽又帶著騎兵向東,到達東城,這時緊跟其左右的只有二十八人。而追趕上來的漢軍騎兵有幾千人。項羽自知難以逃脫,對他的騎兵說:“我帶兵起義至今已八年,親自打了七十多仗,從來沒有失敗過,因而能夠稱霸,據有天下。可是如今終於被困在這裡,這是上天要滅亡我,決不是作戰的過錯。”於是他把騎兵分成四路,面朝四個方向。漢軍已把他們包圍了好幾層。, 項王對騎兵們說:“我來給你們拿下一員漢將!”命令四面騎士驅馬飛奔而下,約定衝到山的東邊,分作三處集合。於是項羽高聲呼喊著衝了下去,漢軍像草木隨風倒伏一樣潰敗了,項羽殺掉了一名漢將。項王與他的騎兵在三處會合了。漢軍不知項王的去向,就把部隊分為三路,再次包圍上來。項王驅馬衝了上去,又斬了一名漢軍都尉,殺死有百八十人,聚攏騎兵,僅僅損失了兩個人。項王問騎兵們道:“怎麼樣?”騎兵們都敬服的說:“大王說的一點都不錯。”, 項羽殺出漢兵的包圍,往南跑去,到了烏江,項羽想要渡過烏江。烏江亭長正停船靠岸等在那裡,對項王說:“江東雖小,但土地縱橫各有一千里,民眾有幾十萬,也足夠稱王啦。希望大王快快渡江。現在只有我這兒有船,漢軍到了,就沒法渡過去了。”項王笑了笑說:“上天要滅亡我,我還渡烏江幹什麼!再說我和江東子弟八千人渡江西征,如今無一人生還,縱使江東父老兄弟伶愛我讓我做王,我又有何臉面去見他們?縱使他們不說什麼,我項籍難道心中無愧嗎?”於是項羽將他心愛的烏騅馬送給了亭長。, 項羽與漢軍繼續鏖戰,身上負傷多處。項王回頭看見漢軍騎司馬呂馬童,說:“你不是我的老相識嗎?”馬童這時才跟項王打了個照面,於是告訴王翳說:“這就是項王。”項羽說:“我聽說漢王用千斤黃金,封邑萬戶懸賞征我的頭顱,我就把這份好處送給你吧!”說完,自刎而死。, (出《史記﹒項羽本紀》)【正見網】(http://www.dajiyuan.com), 四十五歲時蘇東坡在監獄被關了一百天,幸好皇帝特赦才被放出。後來他在一片雜記中說:“我從小就不喜歡殺生,可是也沒有完全斷絕過。近年來開始不殺豬羊了,可是生性喜歡吃蟹蛤,免不了有時要殺。, 子貢是孔子的弟子,知道維護老師的尊嚴。趙簡子問子貢:“孔子的為人怎樣?”子貢說:“讓人認識不了。”簡子不高興了,說:“你跟隨孔子學習了幾十年,學成了才離開他。現在我問你,你卻說認識不了,為什麼?”子貢說:“如果讓一個非常渴的人到江海裡去喝水,他也只能喝下他能喝的,孔子就像江海一樣,讓我如何能認識他呢?”, 有一次魏文侯出遊,見路上一個人反穿著一件皮裘(古人穿皮裘以毛朝外為正),背著柴行走。文侯問他:“你為什麼要反穿著皮裘背柴呢?”那人說:“因為我太愛惜皮裘上的毛了,怕它被磨掉了。”文侯說:“你難道不知道皮裘的裡子要是被磨壞了,皮裘上的毛就會失去依托了嗎?”, 為了能畫好竹子,他在自家房前屋後種了各種各樣的竹子,經常觀察這些竹子,每當有新的感受就回到書房,鋪紙研墨,把心中的印象畫下來。目積月累,不同季節、不同天氣、不同時辰的竹子都了然於心中,只要凝神提筆,栩栩如生的竹子便立刻浮現在眼前。, “涸轍之鮒”比喻處於困境、急待援助的人或物。這個故事實際也告訴我們,當有人求助時,要誠心誠意盡自己的所能去為他解決困難,決不能“因善小而不為”,只是許下空頭支票。有時是人命關天的事,錯過時機,懊悔終生。, 1950年在中國派出志願軍參加韓戰之時,周恩來聲明說,對“美帝國主義”侵略朝鮮“不能置之不理”。這是中共第一次在外交聲明中把一個富有中國特色的四字成語嵌入雙重否定的語法結構中。乍聽起來,並無出奇之處。但隨之而來的是黃繼光身帶七個彈孔撲向吐出火舌的敵堡,是張積慧駕機擊落美國王牌飛行員戴維斯,是豫劇演員常香玉帶頭捐獻“香玉號”戰斗機,是毛澤東兒子毛岸英墓碑在朝鮮國土上建起,是魏巍寫《誰是最可愛的人》,是巴金寫《我們會見了彭德懷司令員》,是老舍寫《無名高地有了名》……“置之不理”四個字呀,把當時每個中國人的喜怒哀樂之情折騰了個底儿朝天!, 中國國家郵政局以“成語典故”為題,發行一套包括“鷸蚌相爭” 、“邯鄲學步”、“葉公好龍”、“濫竽充數”的郵票。在現時江澤民和胡錦濤關係備受關注的時候,這套郵票難免引發外間相當大的想像空間。, 《爾雅》第五篇中這樣解釋路:“一達謂之道路,二達謂之歧旁,三達謂之劇旁,四達謂之衢,五達謂之康,六達謂之莊,七達謂之劇驂,八達謂之崇期,九達謂之逵。”後人便把寬闊平坦、四通八達的大路稱作“康莊大道”。比喻美好的前途。, 世界上的事物是為生命而存在的,生命不是為這些事物存在的。如果音樂聽得能忘了自我,不要再聽。美色看得能忘了自我,不要再看。美食吃得能忘了自我,不要再吃。聖人對於聲色滋味,只求維持生命,多了就捨棄,這是真正的保有自己的生命。這樣的人,眼明、耳聰、口敏,不為外物所動。, 我們使用cookies來了解您如何使用我們的網站並改善您的用户體驗。這包括個性化的內容和廣告。若您繼續使用我們的網站,即表示您同意我們使用cookies,以及我们更新的隐私政策(Privace Policy)和使用條款。. 「史記(しき)」蘇秦(そしん)戦国時代に、六国「韓(かん)・魏(ぎ)・趙(ちょう)・燕(えん)・楚(そ)・斉(せい)」が合従(がっしょう)して、大国秦(しん)に対抗すべきだと主張した蘇秦は、韓の宣王に「小国であっても、一国の王として権威を保つべきである。秦に屈服してその家臣に成り下がってはいけない。」と、説いたということに基づく。, 古い習慣や過去に偶然成功した経験にこだわり、いつまでも進歩がなかったり融通がきかない事。, 【故事】
 出典は「阿闍世王受決経(あじゃせおうじゅけつきょう)」、「賢愚経(けんぐきょう)」です。阿闍世王は、招待したお釈迦(しゃか)様がお帰りになる時に、宮殿(きゅうでん)から祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)への道沿いにたくさんの灯火をともしました。それを見た貧しい老婆(ろうば)がなんとかお金を工面しやっと一本の灯火をともします。阿闍世王の灯火が消えた後も、老婆がともした一本の灯火はずっと消えなかったというお話です。, 【故事】 最初に蛇を描き終えた者が、酒を引き寄せながら、自分の早さを自慢するために、ついでに足まで描けるぞと描いているうちに、もう一人の者が蛇を描き終えて杯を奪い取った。「蛇に足はない。だから、酒を飲む権利は私にある。」そう言って、その酒を飲んでしまった。, 自分にとって都合が良い方につこうとして、どちらつかずな態度で様子をみることのたとえ。, 【故事】 「羊頭を掲げて、狗肉を売る」の略。羊の頭を店の看板に掲げて、犬の肉を売るという意。【出典】無門関[第六], 【故事】 中国・唐の曹松(そうしょう)「己亥歳(きがいのとし)」による。唐の時代の末期には、各地に多くの戦乱が起こっていた。将軍が功名を争う陰には、犠牲になった無名の兵などたくさんの屍(しかばね)が戦場にさらされていることを嘆いたことが由来。, 烏(からす)の集まりということで、数は多いが、まとまりがなく役にも立たない人々の集まりをたとえたことば。, 【故事】 春秋時代、敵同士の呉と越の人でも、乗り合わせた舟が嵐で転覆しそうになれば互いに協力し合うだろうという孫子の言葉からきている。, 【故事】 この悲壮な物語から生まれた故事成語が「四面楚歌」です。楚の人間が楚の歌に囲まれるのですから、なぜ周囲がみな敵という意味になるのか不思議です。実は味方がみな寝返り、敵方に回って自分を包囲しているという話からできた故事成語なのです。 呂尚(りょしょう)という人物の号。「太公」とは、祖父のこと。周の文王が狩りに出かけたとき、渭水で釣りをしていた呂尚に出会い、「わが太公(祖父)が待ち望んでいた人物である」として見出され、太公望と名付けられた。これにより、釣りをする人のことを意味するようになる。【出典】史記[斉太公世家], 【故事】